『蒼の隊』。
それはルウツ皇国の中でも極めて特異な存在だった。
ルウツの主な戦力は、色分けされた名で呼ばれるのが習わしである。
かつてロンダート家が所属し、皇宮警備や皇都の治安維持を主な任務とする皇帝直属の『朱の隊』。
皇帝を支える代表的な五つの伯爵家がもつ『緑』・『白』・『黒』・『黄』・『紫』の各隊。
そしてユノーが今回配された『蒼の隊』である。
『蒼の隊』はいかなる門閥にも属さない、流れの傭兵や、のし上がろうとする平民、そして失地回復をもくろむ没落貴族などから構成される、いわば混成部隊だった。
そのありとあらゆる階層出身の混成部隊を率い、由緒ある五伯家以上の働きをさせているのは、格を重んじる皇国で唯一の平民出身の司令官だった。
記録上の軍歴は約二年半。
だが初陣より一部隊を率いて以来、未だ敗戦を知らない。
その平民出身の彼のことを、庶民は尊敬を込めて、敵国はこれ以上ない畏怖の念を込めて、そしてルウツの高官や名だたる貴族達は蔑みを込めて、こう呼んでいた。
『無紋の勇者』と。
だが、華々しい働きとは裏腹に、その素性はあまり人々には語られていない。
解っているのは、司祭館にある孤児院で育ち、ルウツの大司祭であるカザリン・ナロード・マルケノフの養子となった、という事。
もっともこの養子縁組は、平民である彼が一部隊を率いる『勇者』の位を得るために、子爵家の出身の大司祭が動いた形ばかりのものだとも言われている。
シーリアス・マルケノフ。
それが、その渦中の人物の名前だった。
彼を直接知る人は、口をそろえて言う。
あの人は得体の知れない人だ、と。
深い藍色の瞳は常に無表情で、何を考えているのかを決して他者に悟らせることはない。
そして、自分以外の存在はおろか、自分自身にさえも関心が無いように見える。そう評する人もいた。
噂には当然
この一歩一歩が、自分を確実に死へと導いている。 そう思うと、ユノーは情けなくも身体の震えを止めることが出来なかった。 騎馬の群がたてる規則正しい金属音に混じって、ユノーの手綱を握る指先がカチカチと小刻みな音を立てていた。 何事かと彼の脇をすり抜けていく古参の騎兵や騎士達は、くすんだ癖毛の金髪と優しげな水色の瞳のせいで実年齢よりも幼く見えるユノーの顔をのぞき込む。 そして彼らは等しく同情するように溜息をついて、ユノーを追い越していく。 恐らくユノーの置かれた状況を理解してのことだろう。 この『寄せ集め隊』には、しばしば同じような境遇の人間が配置されるのが慣例となっているのだから。「初陣なのか?」 急に背後から声をかけられ、驚きのあまりユノーは馬から落ちそうになる。 何より、こんなに接近されるまで気配を感じ取ることが出来なかった自分自身を、ユノーは恥ずかしく思った。 そんな自己嫌悪に捕らわれながらも、彼はようやく鞍の上に腰を落ち着ける。 すると、声をかけた当の本人はあっさりと馬首を並べる。 こちらを見つめるその鋭い視線を、ユノーは無言で受け止めた。「初陣で騎士待遇か。さすがは血筋がはっきりした貴族様だな。どこの馬の骨とも解らない俺とは大違いだ」 皮肉混じりに投げかけられた言葉を、ユノーは珍しく怒りを含んだ声で否定した。「そう言われても今回は仮待遇です。今は貴族籍から除名処分中なので、この戦いで死んででも軍功をあげなければ、本当に家名が取りつぶしになってしまいます」 身分を盾にして遊びに来たわけではない。 そう生真面目に答えるユノーに、横に並ぶその人は含み笑いで応じる。 更なる怒りを感じながら彼は隣に並ぶその人を注意深く観察した。 年の頃は、さして変わらないように見えた。 せいぜい一つか二つ違い、というところだろう。 けれど、その人が身にまとっている空気は、明らかに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人の……戦場に生きる人のそれだった。 それを裏付けるよ
この年、大陸統一歴一四八年は、戦で幕を開けた。 エドナのマケーネ大公配下ロンドベルト率いる北方方面駐留軍イング隊が、その駐屯地であるアレンタ平原を出、国境を接するルウツ領セナンへ攻撃を仕掛けた。 対するセナンの国境警備隊は、その黒一色の旗印を見て恐怖を覚え、一戦も交えることなく撤退してしまった。 それに呼応するようにエドナのアルタント大公は配下のシグル隊を、古都バドリナードにほど近いルウツ皇国領ルドラへ進軍させたのである。 古の都バドリナードは大帝ロジュア・ルウツが大陸統一の足がかりとした要地にして、現在はその大帝が眠る場所、言わば聖地である。 それを自らの手中に収め、優位に立つべくルウツ皇国とエドナの両大公家はその機会を虎視眈々とうかがい、牽制しあっていた。 このままでは、バドリナードはがいずれ二つの部隊から挟み撃ちされ、エドナの手に堕ちるかもしれない。 その事態を憂慮した宰相マリス侯は皇帝に対し出兵を進言した。 マリス侯を後見人として即位した病弱なルウツ皇帝メアリはその案を採った。 かくしてルドラへの出兵はなし崩しに決まった。 しかし、どの部隊を派兵するかでまた一騒動が起きた。 宰相マリス侯は、由緒ある五伯家のいずれかを、と提案した。 一方で皇帝の妹姫で、近衞と皇都の警備を担う『朱の隊』を預かるミレダ・ルウツが真っ向から反対した。 曰く、今必要なことは、権威や名誉ではなく確実に勝つという裏付けである、と。 皇国の現状を見ればそれは当然のことであるが、マリス侯は渋った。 それが犬猿の仲であるミレダの案であり、何よりマリス侯は『蒼の隊』その物を毛嫌いしていたからである。 だが自らも武人であり、しかも皇帝に連なるミレダの言葉に反論できる者はいなかった。 そこまでの命知らずは、存在しなかったのである。 こうして渋々ながらもマリス侯は蒼の隊を派兵することを了承した。 しかし宮廷でそんな裏事情があったなどと言うことを、最前線の人間は知る由もない。 ただ
本陣の天幕は、陣の中央にある。 一際大きな天幕の前で呼吸を整えてから、恐る恐るユノーは入口の幕を上げた。 広い内部には、ルドラ地方の地図が広げられており、事細かに敵の布陣状況が記入されている。 上座に座るセピアの髪の司令官は、面白くなさそうにそれを見つめていた。 申し訳なさそうに足を踏み入れ、邪魔をしないように細心の注意を払いながら最末席についたユノーには、全く興味がないようだった。 そして、各小隊長級以上の人々が三々五々入ってくる。 その度毎にユノーは一々立ち上がり、黙礼する。 それに気がついたシグマは、にやりと笑いながら親指を立ててそれに応じる。 共に入ってきたカイは、先程の話などまるでなかったかのようにいつもの穏やかな笑みを返してきた。 やがて全ての席が埋まる頃を見計らうかのように参謀長が姿を現し、それを合図に軍議は始まった。 まず発言したのは、最新の状況を実際に目にしてきた斥候隊長である。 押し殺したような声でぼそぼそと戦況が述べられ、その言葉に応じて地図に書かれた矢印は長く伸ばされる。 そして敵軍進路の延長線上には、古都バドリナードがあった。「直接バドリナードをおとそう、という訳か。確かにそれが一番手っ取り早いか」 面白くなさそうに言う司令官に、参謀長は顔を真っ赤にして怒鳴った。「そのように悠長なことを言っている場合ではありません! 一刻も早く物騒なエドナの逆賊共を……」「見る限り、相手の補給線はぎりぎりの所まで伸びている。周囲の村を二つ三つおさえれば、勝手に自滅してくれるだろう」「しかし、それでは時間がかかりすぎます! 陛下よりお預かりした貴重な兵員を、長期間危険にさらすような愚かな策は……」 立ち上がり、さらに激高する参謀長。
司令官の気まぐれにも等しい独断で突然配置換えになったユノーを待っていたのは、お飾りの式典仕様ではない、実戦向けの基礎軍事訓練だった。 カイは、小休止の度にそれこそすぐに使える且つ最小限必要な剣技をユノーに叩き込んだ。 始めのうちこそカイの剣を受けるのもままならず、あちらこちらに切り傷をこしらえていたがユノーだったが、三日程たつとそれなりに打ち合いを出来るようになっていた。「……どうでもいいけれど、妙な癖を付けさせんなよ。何事も基礎が大事なんだろ?」 あきれたように言うシグマに、カイは穏やかに反撃する。「だから、それじゃ間に合わないから、坊ちゃんはここに配置換えになったんだろう?」 二人の間で困ったように立ちつくすユノー。 その輪の中に、何の前触れもなく皮肉な笑い声が割って入った。「……痛み分けだな。まあ、あえて口出しはしないが。最低、本番までには敵の攻撃を受け流せる程度になってもらわないとな」 あと、余計な先入観を持たせるな、と付け加えるシーリアスに、ユノーは首を傾げる。「先入観……ですか?」「見たところ、貴官にはそれなりの素質がある。だが下手に揺り起こして、殺意を暴走させたくない。万一そうなれば敵も味方も仲良く全滅だ」 何気ないその一言に、ユノーは何故か底知れぬ不安を感じた。 だがそれを口にする前に、気まぐれな司令官は姿を消す。 そんな彼らを忌々しげに見つめる視線にユノーは気が付いた。 この先頭集団で唯一好きになれない人物。言うまでもなく宰相マリス侯直参の参謀長だった。 この人は宰相の名を口にしてその権威を振りかざし、何かにつけて司令官に異を唱えた。 何より行
皇都エル・フェイムを、薄暮の空が覆う。 薄紅に染まる広大な庭園を見下ろしながら、ルウツ皇帝の妹姫ミレダ・ルウツは思わず溜息をつく。 ルドラに向かっている蒼の隊からもたらされた『非公式』の報告書。 そこには事実だけが淡々とつづられている。 余計な言葉が全く含まれていないその文章は、まるで彼女自身が関わってしまった『過去』の重さを見せつけているようである。 改めてその文面を眺めやってから、彼女は再び溜息をついた。「あらあら、なんて顔をしていらっしゃるの? それでは幸運も逃げてしまうわよ」 突然の声にミレダは驚いて身体ごと振り向く。 そこにはルウツ皇国の精神的支柱である大司祭、カザリン・ナロード・マルケノフが穏やかな笑みを湛えていつの間にか立っていた。 淡い茶色の瞳に同じ色の髪。 質素な神官の長衣も物腰の柔らかく上品な大司祭が身につけていると、まるで上等なドレスのようだった。 普段は司祭館にいるこの人が皇宮にいるということは、おそらく体調を崩して政務を休んでいるミレダの姉皇帝メアリ・ルウツを見舞った帰りなのだろう。 慌てて姿勢を正し、ミレダは礼を返す。「失礼いたしました、猊下。お恥ずかしいところをお見せして……」 おだやかな表情のまま手を上げて、大司祭はその言葉を遮る。 一方ミレダの顔には、未だ不安げな表情が貼り付いたままだった。 勝ち気な妹姫が普段は決して見せないその様子に、大司祭は穏やかに諭す。「人の上に立つ人間は、不安定な心を顔に出してしまっては駄目よ。目の前に剣を突きつけられてもね」「……この国を動かしているのは、姉上と宰相です。私はその持ち駒の一つに過ぎません」「本当にそう思っていらっしゃるの?」 痛いところをつかれ、ミレダは再び窓の外に視線を巡らせる。この人だけには自らを偽ることが出来ない、昔からそうだったと思いながら。 そのミレダの心の内を知ってか、大司祭はゆっくりとその隣に並んで立つ。「……姉上のご様子は、いかがでした?」 遠慮がちに
皇女姉妹は、ゆるく波打つ赤茶色髪と宝石のように輝く青緑色の瞳という、よく似た外見をしていた。 そんな瓜ふたつと言っても良い外見とは異なり、おっとりしていて思慮深いが病弱な姉メアリ、勝ち気で頑固ではあるが曲がったことが大嫌いな妹ミレダと言うように全くと言っていいほど正反対だった。 ルウツの法では皇位継承権は男女に関わりなく皇帝の長子が持つ。 二人には一人従兄もいたが、皇帝の第一皇女たるメアリの即位は既定路線となっていた。 物心が付く頃から、既にミレダはしかるべく時は姉を護ることを自らの役目と理解し、その為に剣を学んだ。 そんな彼女の師となった人は、ルウツ皇国神官騎士団長のアンリ・ジョセという人物である。 優れた師についたことにより、天性の才能が開花したのだろうか、彼女の腕はめきめきと上達していった。 そんなある日、ミレダは途切れ途切れに子どもの泣き声を聞いた。 宮殿内の衛兵や侍従の居住区域には無論その家族と子どもも住んでいるが、それが後宮まで聞こえてくるはずはない。 けれど悲痛な声は途切れ途切れに響いてくる。 どうしてもそれが気にかかり、ミレダは姉に尋ねた。 だが、メアリは予想に反してこう答えた。 何も聞こえない、と。 自分がどこかおかしくなってしまったのだろうか。 一人思い悩むミレダの耳に入ってきたのは、うわさ好きな侍女達の他愛のないお喋りだった。 この間、皇都で一斉に行われた『草刈り』で、一人の子どもが捕まったらしい、と……。 もしかしたら。 そう意を決し、ミレダは師であるジョセに相談した。 いかに親が敵国の間者(かんじゃ)だったとはいえ、その子供に罪はないはずだから、納得がいかない。 何とかする事は出来ないか。 けれど、その言葉を受け止めるジョセの表情は厳しかった。 不安げにこちらを見つめてくる皇女に、ジョセは重い口をようやく開いた。「恐らく、その子は正規の裁きは受けていないでしょう。我々が救い出しても誰も異を唱えることは出来ないと思われます」
庭園を走ることしばし、突然草むらががさがさと揺れる。 剣を構え恐る恐る歩み寄るミレダであったが、ややあってその顔には安堵の表情が浮かんだ。 「師匠様、こんな所で何を?」 そう、そこに身を隠していたのは他でもなく、ミレダの師アンリ・ジョセだった。 その頬には無数のひっかき傷が赤く浮き上がり、噛みつかれたのだろうか、歯形が残る手には、マントにくるまれた何かを抱いている。「……お陰で助かりました。侯の懐に飛び込むなど、殿下のご命令とはいえ我ながら無茶をしたものです」 武人らしからぬ穏やかな灰色の瞳に苦笑に似た光を浮かべるジョセ。 慌ててミレダは駆け寄り、その腕の中に納まっている物をのぞき込み、思わず手にしていた剣を取り落とした。 抱かれていたのは他でもない、全身に傷を負った少年だったからである。 そんなミレダに、ジョセは既に司祭館には沐浴と薬師の手配はしてある、と告げた。「宰相の懐……? では、西の塔へお一人で?」 西塔はルウツ国内にある牢獄でも最も劣悪な環境と言われる所だ。 そして今目の前で苦笑を浮かべているジョセは中に潜り込み『その子』を助け出してきたのである。 正規に裁かれることなく捕らわれた敵国の間者の子どもを。「よりにもよって、最下層に押し込められていました。殿下のおっしゃる通り、確かに子どもに対してこの仕打ちは……」 そう言いながらジョセはその子どもの顔を見やりながら唇を噛んだ。 乱れたセピアの髪に、涙の後が残る血の気のない白い顔。 そして身体の至る所には非公式な『尋問』によるあらゆる種類の傷が刻まれ、更に両手首と首には重い枷がはめられていた。「師匠様
数日後、意識を取り戻した少年は司祭館に孤児として引き取られたのだが、その様子は生きているだけの人形の様だった。 寝台に横たわったまま、身動きすることなく虚ろな瞳で天井を見つめている。 口許まで食事を近づけられても全く反応を示さない。 命を繋ぐため、看護役の神官が無理矢理に飲み込ませるという状態だった。 傷が治って、ようやく自力で起きあがれるようになってからも、他の子ども達の遊びの輪に入っていくこともない。 『殺意の暴走』という同じ過ちを繰り返さないようにとの配慮で、首から下げられた『まじない』の呪符を常に握りしめ、笑うこともなければ、泣くこともない。 日々言葉無く虚ろな視線を空(くう)に向けるだけだった。 そして、彼は未だ、自分の名前を尋ねられても答えようとはしなかった。 家族という何ものにも代えがたい拠り所が、突然破壊されたのだ。何の前触れもなく、しかも目の前で。 当然と言えば当然のことなのかもしれない。 だが師との約束を守るため、ミレダはそんな彼をどうにか現実世界へ引き戻そうと頻繁に足を運んで様々なことを話しかけた。 けれど彼は、やはり何の反応も見せなかった。ある日ミレダはいつものように少年の所へ向かう途中、最も会いたくない人物と鉢合わせしてしまった。 そう、宰相マリス侯と、その取り巻き達だ。「これは殿下、ご機嫌麗しく拝見し喜ばしい限りです」 うわべだけの礼儀正しい言葉に、ミレダは無言で頷く。 そのころ父である皇帝は病の床にあり、ルウツの実権は完全にマリス侯の手に落ちていた。 慇懃(いんぎん)な態度とは対照的な勝ち誇ったような視線から逃げるように、ミレダはそのまま目を伏せる。 けれど唐突にミレダはある事を思った。 ここで飲まれてはいけない。 立ち向かわなければ、あの少年を助けることができようはずもない、と。 ミレダ
「汝に平安あれ」 先程見た光景と全く同じその言葉に、ユノーは思わず振り返った。 その視界に入ってきたのは、心ここにあらずと言うような表情を浮かべて起きあがろうとする上官の姿だった。「……師匠。……どうして……こちらに?」「どうしても何も、突然姿を消したのは、お前の方だろう。おかげで殿下はたいそうご立腹だ。しかもいらぬ手間を部下にかけさせるとは……」 珍しく戸惑った様な藍色の瞳を向けられて、けれどユノーは立ちすくみ、ややあって思わず数歩後ずさった。 そして、震える声でなんとか取り繕うとする。「も……申し訳ありません……。勝手に……お邪魔して……。あの……」 けれど、経験値ではユノーは司令官と比べると完全に劣る。 鋭い視線を投げかけられて、彼は完全に口ごもってしまった。「……ロンダート卿、何を見た?」 開戦の直前に投げかけられたのと、全く同じ質問である。 けれど、今度はユノーは返すべき言葉を持たなかった。 その様子に全てを理解したのだろう、シーリアスはわずかに吐息を漏らし、苦笑になりきらない表情を浮かべて見せた。「わかった。酒場の笑い話のきっかけぐらいにはなるだろう。……全部本当の事だから、気にするな」 その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、ユノーの涙が埃の積もった床に落ちた。「…&hellip
周囲は完全な暗闇に包まれていた。 申し訳程度に敷かれたぼろ布の上に横たえられているのは、先ほどまで鞭打たれていたあの少年である。 冷たい石に囲まれた狭い空間で、ぴくりとも動かない。 その場所を満たしているのは、もう何年も動いた形跡がない重苦しくじめじめとした空気と、少年の身体に刻まれた傷口から流れ落ちる血の匂いだった。 地下牢、という言葉が刹那ユノーの脳裏によぎった。 そして少年に向かい手を伸ばした瞬間、ユノーの思念は少年と同化していた。 何時ここに連れて来られたのかもわからない。いや、なぜこんなことになったのかもわからない。 ただ、全身の傷が脈打つように疼(うず)く。 傷は腫れ上がり熱を持ち、地下牢内の寒さを感じないほどだった。 時折天井から水滴がむき出しの背にしたたり落ちるたび、その痛みは激しくなる。 そして痛みに耐えかねて体を動かそうとすると、更なる激痛が襲いかかってくる。 叫び声を上げる力も失せ、ただ目を閉じ涙を流していたその時、闇の中に変化が起きた。 鉄格子のはまった扉の隙間から、明かりが漏れてくる。 同時に何者かが格子越しに中を確認しているらしい視線を感じた。 しばらくしてがちゃり、という重々しい音がした。 抵抗するかのような嫌な音を立てて扉が開き、ランプを手にした穏やかな風貌の武人が踏み込んできた。 その武人はゆっくりと近づき、用心深く身をかがめ、手をこちらに向けて差し伸べてくる。 逃げなければ。 何故そのように感じたのかすら解らない。 ただ咄嗟(とっさ)にそう思い、顔面近くにあった彼の指先に噛みついた。「大丈夫だ。私は助けに来たんだ……」 言いながら、武人は両の手をこちらに差し伸べる。 抱きかかえられそうになるところを無茶苦茶に暴れ、差し出された武人の手の甲を、近づいてくる頬を引っ掻く。 けれど、はめられた枷と繋がれた鎖が、この僅かな抵抗を試みるたびに確実に体力を奪っていく。 意味を成さない叫び声をあげながら、残された僅かな力で、這うように武人の手中から逃れようとする。 けれどその指先は、すぐに剥き出しの石壁にぶつかった。 そう、ここは『閉ざされた』空間なのだ。 何をされようとも、ここから逃れられないのは解っている。 何時しか額には武人の手がか
頭数合わせで皇帝主催の慰霊式に出席していたユノーは、式典が終わるなり聖堂から走るように退出した。 式に出席していた神官の中に、神官籍を持っているというあの人がいるのではないか。ならば、せめて無事帰還できた礼を伝えなければ。 そう思ってみたものの、聖堂の中では数え切れないほどの参加者に囲まれ、身動きが取れなかった。 加えて神官たちははるか前方の祭壇の周りにいたため、顔までははっきりわからない。 そこでユノーは出口付近で三々五々退出してくる神官たちからあの人を見つけようと思ったのだが、皆等しくフードを目深に被っているので、覗き込むわけにも行かない。 あきらめかけたその時、ユノーはあるものを感じた。 他でもない、じめじめとしたかび臭い空気……最終決戦の直前、司令官を起こしに行ったときに感じたあの空気だった。 吸い寄せられるようにユノーはその方向に歩を進める。 そして気が付くと、兵舎地区の一角に足を踏み入れていた。 個性のない家が建ち並ぶ、その片隅の一軒からそれは流れ出していた。 通りすがりの住人──恐らく衛兵の家族だろう──に、そこに誰が住んでいるのか、と彼は尋ねる。 すると、殆ど見かけたことはないが、という前置きの後で、あれは『無紋の勇者』の家だという答えが返ってきた。 嫌な予感がする。 いや、予感と言うにはその感覚は余りにも強すぎた。 閉ざされた扉の向こうからは、尋常ではない邪気を孕んだ空気が溢れてくる。 扉を叩くのももどかしく、ユノーは思い切って扉を開く。 かすかな邪気よけの香の残り香があるのだが、それはかび臭さに浸食されている。 その臭気に思わず口と鼻を抑え入口で立ち止まるユノーの視界に入ってきたのは、苦しげに床にうずくまるシーリアスの姿だった。「し、司令官殿! 閣下! いかがされましたか?」 叫びながら近づくユノーに、苦しげな息の中、だがはっきりとシーリアスは告げた。
皇帝の妹姫ミレダは、宮廷内に併設されている兵舎地区へと向かっていた。 ルドラで勝ち戦を納めた蒼の隊が皇都に帰還してから、行政府は戦死者に対する恩給や負傷者に対する補償金などの事務で手一杯の状況だった。 それらの決裁権を有するミレダは、あることを決定するため無理矢理時間を作ってここに来た。 今現在、行政府で問題になっている事案に対する、ある人物の『意見』を聞くために。 その人物が住む質素な家の前で彼女は立ち止まり、古びた扉を叩く。 それは来訪を告げるためではなくて、気まぐれな家主が在宅しているか不在かを確認するための行動だった。「開いてる。勝手に入ってくれ」 素っ気ない声が内側から返ってくる。どうやら家主は在宅のようだった。 礼儀の欠片すら感じられないその声に、だが気分を害するでもなくミレダは扉に手をかける。 扉が開くと同時に彼女の鼻を突いたのは、むせ返るような香木の焚かれる匂いだった。 邪気を遠ざけると言われるこの香は、神殿や聖堂ではそれこそ途切れることなく焚かれている物である。 そして戦士と神官という異なる二つの顔を持つこの家の主が戦場から戻るたび、まるで身体に染みついた血の匂いをうち消すかのように絶やすことがないことも、彼女は知っている。 そして戦で勝利を重ねるたび、一度に焚かれる香木の量が目に見えて増えていることに、彼女は一抹の不安を感じていた。「いい加減、この匂いは強すぎるんじゃないか? 何もここまでしなくても……」 言いながらミレダは後ろ手で扉を閉め、家の主に声をかける。 埃が積もった机の上には、司祭館の書庫から借りてきたと思しき分厚い教典が鎮座していた。 家主は来客に目もくれず、黙々と作業を続けながら先程同様の素っ気ない口調で答える。「……今回は色々面倒なことがあって少しばかり厳しかった
予想外の出来事が重なったものの、今回も『蒼の隊』はその不敗神話を裏切ることはなかった。 けれど、戻ってくる全軍を迎える後衛のシグマは、帰還してくる隊列の中に友人の姿を見つけることが出来ずにいた。 不安げに表情を曇らせ何か言いたげに見やってくるシグマに、司令官は眉一つ動かさずに告げる。 参謀長閣下とイータ・カイ卿は、名誉の戦死を遂げた、と。 本当なのか、とシグマは青ざめた顔をして下馬するユノーに胸ぐらを掴まんとする勢いで詰め寄る。けれど、ユノーは返す言葉がなかった。 カイ本人の名誉を守るため、そして友人を思うシグマのためにも、真実は語るべきではない、そう判断したからだ。 その後、わかっている限りの戦死者の名が告げられていく。 シグマ以外にも、それまで幾度となく戦場を共にしてきた戦友を失った者達の嗚咽が、あちらこちらから聞こえてくる。 中には膝を付き拳を大地に打ち付けながら号泣する者もいる。 それらの姿を目にしたユノーは、自分が生き残った……生き残ってしまったということをようやく思い知らされたのだった。 ※ そして、何事もなかったかのように夜が訪れた。 心配された新たな敵から追撃が行われる気配もない。どうやら先方もこれ以上の戦闘は無益と判断したのだろう。 おかげで、蒼の隊は久しぶりに静かな時を迎えることができた。 陣のあちらこちらで生き残った者達が、ささやかな祝杯をあげている。 やがて闇が深くなっていくにつれさすがに彼らも眠りにつき、次第に周囲は完全な静寂に包まれる。 その耳が痛くなるような音のない世界で、心身ともに疲れ切っているにもかかわらず、ユノーはどうしても寝付くことができずにいた。 目を閉じると、戦場で見た惨状がまぶたの裏に浮かび上がってくるのである。 敵味方の無数の躯(むくろ)がゆらゆらと起き上がり、恨みをはらんだ目で睨みつけながら、こちらへ来いとでも言わんばかりに手招いているような気がしてならない。 そんな彼の耳に、歌うような不思議な声が聞こえてきた。
『エドナの死神』と恐れられるロンドベルト・トーループが配下の部隊を率いルドラに到達した時、戦は既に終結しようとしていた。 どう見ても敵軍勝利という、予想通りの状態で。「いかがなさいますか? 追撃を仕掛けてはどうでしょう」 背後から参謀に声をかけられて、しかしロンドベルトは目を伏せ首を左右に振った。「今さら追いかけても、時間の無駄だ。ただでさえこちらの補給線は限界まで伸びている」 深追いしても袋叩きに合うだけだろう。 そうつぶやくと、ロンドベルトは不服そうな参謀を無視して、右手に控える女性に声をかける。「副官、全軍に伝達。負傷者をできる限り収容した後速やかに撤退する」 かしこまりました、と彼女が馬首を返そうとした時だった。 傷だらけの伝令が一人、彼らの前に文字通り転がり込んてきた。「イング隊のロンドベルト・トーループ将軍とお見受けいたします。我が隊の司令官がお会いしたいと申しております」 突然のことに、副官と参謀は等しく司令官をみつめる。 一方ロンドベルトはその漆黒の瞳をわずかに細め、低い声で伝令に問うた。「失礼ながらお尋ねする。シグル隊の司令官……バウワー殿はご存命なのか?」 すると、伝令はその言葉に打たれたように深々と頭を垂れる。「は、はい。恐れながら本陣にお運びいただきたいと……」 そうか、とつぶやくと、ロンドベルトは吐息を漏らす。 そして今度は左手後方に控える参
どす黒い思念が、ユノーを取り巻く空間に先程より強く流れ込んでくる。 次の瞬間、彼の視界の端で何かが動いた。 何事かと向き直った瞬間、参謀長を取り巻く一角となっていたカイが手にした剣を閃かせ虜となっているその人を切り伏せた。 と同時に、その勢いを保ったままシーリアスに向かい突っ込んでいく。 異変に気付いたシーリアスが振り向いた時には、カイは絶叫をあげ大上段から剣を振り下ろそうとしていた。 間に合わない。 その場にいた誰もが、等しく目を覆う。 が、信じられないことが起きていた。 鈍い音と共にカイの剣の先端部は何かにぶつかったかの様に折れて弾け飛び、草むらの上に突き刺さった。 強固なまでのユノーの防御が、皮肉にもその術を教えた人からの攻撃を防いだのだ。「何で……何で貴方が、こんなことを……」 まだ信じられない、と泣きそうになりながら問うユノーに、カイは剣を引き寂しげに笑った。「やっぱり防御止まりにしておいて正解でしたね、司令官殿。こんなに不安定な精神状態じゃ、何が起こるか解らない」 最後まで貴方にはかないませんでした、とカイは自嘲気味に笑う。 そして、ユノーの方を見、彼は寂しげに言った。「……そのうち、君にも解るときが来るよ。うだつの上がらない下級貴族の惨めさがね」 言い終えると同時に、カイは先端が折れた白刃を自らの首筋にあてる。「……君は、自分のようにはなるなよ」 そして次の瞬間、カイは剣を一息に引いた。 止める間すらなかった。 その傷口から噴水のように鮮血があふれる。 即死であろう事は間違いなかった。 自らが作り上げた深紅の沼の中に、事切れたカイは馬の背から落下する。 その顔には何故か満足げな微笑が浮かんでいた。 その様子を、凍り付いたようにユノーは見つめていることしか出来なかった。 手を差し伸べることも、泣き叫ぶことも出来ぬままに。「……安心しろ。お前の責任じゃない。奴が勝手に選んだ道だ」 背後から、いつも以上に突き放すようなシーリアスの声がする。 それが恐らく自分の心情を思っての精一杯の慰めであることを、ユノーは理解していた。 いや、理解しようとしていた。 だが、結果的に自分がカイを殺してしまったのではないかという考えがよぎる。 けれど、もしあの時、自分が飛
ついにここまで来てしまった。 もう逃げられない。 ユノーが覚悟を決めたときだった。 日の光に、シーリアスの宝剣が閃く。 射すくめられたようにユノーは固唾を呑んだ。「総員、抜刀! 突撃開始!」 その声と同時に、蒼の隊精鋭部隊は急斜面を駆け下り、修羅場と化した戦場に飛び込んでいく。「ぼさっとするな!」 いつも以上に鋭いシーリアスの声に、ユノーは慌てて敵の攻撃をなぎ払う。 一方で、シーリアスが手にしている宝剣から一陣の風が起こるたび、敵はばたばたと落馬していく。──暴走させれば敵も味方も仲良くあの世行きだ……── 司令官が常々口にしていた言葉の真意を、ユノーは身をもって知った。 確かにこれは、付け焼き刃の短時間講習で習得し実践するのは無理だ。 一つの攻撃を受け流してほっとするの持つかの間、次の敵騎兵が躍りかかってくる。「貴官はついてきて、敵の攻撃に対抗する『壁』を作るのに専念しろ」 混乱の中であるにもかかわらず、シーリアスの声は確実にユノーに届いた。 慌てて顔を上げたその視界の先で、一人の敵騎兵が胸から血を吹き上げて落馬する。 乱戦は続いた。 青々と茂っていた草原は、いつしか流れる血によってところどころどす黒く染まっている。 あちらこちらで剣と剣がぶつかる火花が散り、放たれた矢が空を行き交う。 斬られた者は自ら作り出した赤い沼に沈み、矢にあたった者はその傍らに落ちる。 敵味方の入り乱れるその戦場で、シーリアスは常に陣中にあり、返り血で全身を深紅に染めていた。 ユノーにとって意外だったのは、色を失った参謀長だった。 真っ先に切り伏せられると思っていたその人は、巧みにシーリアスとユノーの間に割ってはいることにより、自らは何もすることなくどうにかこの戦場を泳いでいる。 だが、この乱戦の中、その人を気にとめる者は誰一人いなかった。 誰もが生きるために、敵を屠(ほふ)っていたからである。 いつし
居並ぶ将兵の前に姿を現した『無紋の勇者』は、おもむろに口を開いた。「最衛隊として、五百を本人に残す。負傷者は可能な限り収容しここに運べ。指揮はシグマに任せる」 この状況では妥当なその言葉に、立場の異なる二人の顔に図らずも全く同じ失望の表情が浮かぶ。「大将、それはないよ! せっかくここまで来たのに、ひと暴れもできないなんて」「後衛の守りは、是非私に…」 ほぼ同時に口を開くシグマと参謀長。 が、それを予想していたのか司令官は表情を動かすことなく答える。「ここは我々の最後の砦だ。我々に万一の事が起きた場合は、それなりの経験がある者に退却の指揮を執って貰いたいからこそシグマに任せる。参謀長たるあなたには、戦場で若輩な俺を補佐して欲しい」 その人にはしては、珍しく正論である。 確かに常勝と呼ばれている蒼の隊ではあるが、それが今回もそうであるとは限らない。 蒼白になる参謀長の隣でむくれているシグマの肩を、カイがなだめるように叩いた。「まあ、その分自分が叩きのめしてくるからさ。少しは我慢しろよ」 長年の戦友にたしなめられてもなお、シグマは納得がいかないとでも言うように頬を膨らませて腕を組む。 その時、最前線からの伝令が駆け込んできた。「第二部隊、突入しました! 現在混戦状態となっております!」 無言で頷くと、『無紋の勇者』と呼ばれているその人は高らかに命じた。「総員騎乗! 友軍と合流する!」 ガシャガシャと金属がぶつかり合う音が響く。 それに遅れまいとしてユノーは慌てて鐙(あぶみ)に足をかけ、鞍の上に自らを引き上げる。 既に馬上の人となっていた司令官は宝剣を頭上にかざす。「”見えざるもの”の加護よ、我らが剣に宿り賜え!」 威風堂々としたその姿と声に、力強い鬨(とき)の声がそれに応じる。 最高潮に達しようとしていた戦意に、ユノーははからずも身震いする。 シーリアスは、邪気を切り払うかのように掲げた宝剣を水平